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Alexandria

カイロからAlexandriaへ

カイロから国道1号線を北上、タンタを経由してアレキサンドリアへ、帰りは、アレキサンドリア・デザートロードでカイロへ戻った。復路はかなり時間短縮になる。このときはアレキサンドリアが主目的ではなく、カイロ−アレキサンドリア間の市街化の状況の視察のためであったが、ランチをアレキサンドリアで取る都合上、アレキサンドリアも視察した。
Alexandria 22 September 2007

Alexandriaの町並み

19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパ建築が多く建てられ、トラムが敷かれたのでアレキサンドリアの町並みはヨーロッパと見間違うほどだが、メンテナンスがされていないのでどことなく細部は老朽化している。写真はトラムウェイ、ここには2階建てのトラムも運行している。

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アレキサンドリアの歴史

アレクサンドリア(Alexandria)は、カイロに次ぐ人口400万人を有するエジプト第2の都市である。 古典ギリシア語では「アレクサンドレイア」、 アラビア語では「アレクサンドロス(アラビア語でイスカンダル)の町」を意味するアル=イスカンダリーヤ(al-Iskandariya)という。マケドニア王アレクサンドロス大王が、その遠征行の途上で、東方各地に自分の名を付けて建設したギリシア風の都市の第1号である。

 

エジプトのアレクサンドリア(アレクサンドレイア)は紀元前332年に建設され、アレクサンドロスの死後は、その部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展し、一時は人口100万人を超えたともいわれる。

 

古代アレクサンドリアは世界の七不思議の一つに数えられる巨大なファロス島の大灯台(現カーイト・ベイの要塞)や、各地から詩人や学者たちが集まってきた学術研究所ムーセイオン、文学、歴史、地理学、数学、天文学、医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、70万冊の蔵書を誇りながらも歴史の闇に忽然と消えたアレクサンドリア図書館があり、ヘレニズム時代の商業(地中海貿易)と文化の中心地として栄えた。

 

『幾何学原論』で知られる数学者のエウクレイデスや、地球の大きさを正確にはかったアレクサンドリア図書館長エラトステネス、アルキメデス、ヘロン、クラウディオス・プトレマイオスなどが活躍した。

1世紀には世界最大のディアスポラ(ユダヤ人コミュニティ)を擁し、哲学者フィロンらが活躍した。またキリスト教の初期から重要な拠点となり、古代神学の中心地のひとつともなった。ローマ、コンスタンティノポリス、アンティオキア、エルサレムとともに総主教座が置かれ、キリスト教の五本山の1つとなった。

 

4世紀以降はアレクサンドリア学派と呼ばれる神学者たちが活躍した。641年、アラブ人によりアレキサンドリアは陥落しイスラム世界に組み込まれた。アラブ時代には当初東ローマ帝国から切り離されたために経済的に沈滞したが、学芸の都として性格は残りつづけ、アラビア科学揺籃の地のひとつとなった。

 

やがて紅海からカイロを経てアレクサンドリアにもたらされたインドの香辛料を求めてヴェネツィアなどイタリア半島の諸都市から商人が訪れるようになると、地中海交易の重要拠点として再び経済的に繁栄した。

 

16世紀にヨーロッパ諸国がアフリカ回りのインド洋航路を開拓するとイタリア諸都市とともに再び衰えを見せ始めるが、19世紀にムハンマド・アリーの近代化改革の一環として輸出商品としてナイル・デルタで綿花が大々的に栽培されるようになるとその積み出し港となり、国際貿易都市としてみたび繁栄を始める。

 

現在ではエジプト・アラブ共和国の工業や経済の中心地、化学工業などが進出しエジプト屈指の工業都市として発展を続けている。同時に風光明媚な地中海沿いの海岸線を有することから湾岸諸国をはじめとした観光客で夏季は賑わう国際観光都市である。また、別荘が地中海沿い多く建設されエジプト人の夏の休暇先として定番になっている。(wikiをベースにした。)

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