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Cairo03- Two Heliopolis, Ancient and Modern

カイロには古代エジプトの都市ヘリオポリスと約100年前に建設が始まった現代のヘリオポリスがある。現代のヘリオポリスは、拡大するカイロの郊外住宅地として市街地の北東、砂漠地帯に建設された。他方、古代ヘリオポリスは"太陽神の都市”として歴史に刻まれている。

100年前の都市開発、ヘリオポリス

Heliopolis1905年、ベルギー人鉄道経営者Empinによりヘリオポリス・オアシス・カンパニーが設立され、カイロの東北部の砂漠地帯を当時のエジプト政府より6000エーカー(24平方キロ)購入し、"city of luxury and leisure"のデザインコンセプトの下、大通りや必要な全ての利便施設、都市インフラストラクチャー(上下水、電気、Heliopolis Palace Hotel(現在は大統領執務室となっている。), Heliopolis House、レクリエーション、ゴルフコース、競馬場、公園など)がデザインされた。 住宅は賃貸も含まれ、特定の社会階層を狙って斬新なデザインのアパートメントやテラスハウス(二戸一建物)、テナント地区、労働者用住宅が建設された。 同時に、現在のラムセス駅とヘリオポリスを結ぶトラムも建設された。 (写真は1933年, Wiki-enより) 現代のヘリオポリスはトラムをはじめ概ね当時の様子を残している。特にコルバ地区の建築は下の写真のとおり、現存する。

Modern Heliopolis by wiki

ヘリオポリスの建築デザインはヘリオポリス・スタイルと呼ばれている。これは、建築デザインの審美性と機能性の優位を三つのスタイルで表現しようと試みた。これらムーアファサード、アラビックセクション、ヨーロピアンプランの融合を一つのユニットで以下の3点に適切であること。

1)北アフリカにおける気象条件(セクションで実施)

2)この地域にいおいて真価を認められ、波及するアラビック・ムーアスタイルのセンスある建築(ファサードで実施)

3)新たな世紀におけるエジプトの住空間における社会的な伝統(プランで実施)

ヘリオポリス・メトロとトラムウェイ

自動車交通に邪魔者扱いされていたトラムウェイが環境問題の高まりと相まって見直しつつあるのは世界の大都市の潮流だ、カイロも例外ではない。しかし、70年代はじめから2000年までの30年間にモータリゼーションの高まりにより需要が低迷、路線数が29から18路線へ(−38%)、路線延長が382kmから226km(−41%)へ、車輌数が335から254輌(−24%)、需要が270百万人から50百万人(−81%)へ、人・キロでは0.7百万人・キロから0.2百万人・キロ(−71%)と激減した。

カイロでトラムウェイが集中している地区は、ヘリオポリスとヘルワン地区の2箇所、ヘリオポリス地区にはヘリオポリス・メトロ(Heliopolis Metro)と呼ばれるトラムウェイとCTAトラム(CTA Tram)と呼ばれるトラムウェイの2系統が運行している。ヘリオポリス・メトロはヘリオポリス地区だけで運営しているが、CTAトラムはヘリオポリス地区とカイロの南部、ヘルワンでも運営している。両方ともCairo Transport Authorityの所轄であるが、ヘリオポリス・メトロはヘリオポリス・メトロ社(ヘリオポリス都市開発に伴って設立されたトラムウェイ会社が引き継がれている)により運営され、CTAトラムはCTAの直営である。

現在のトラムウェイのサービスレベルは惨憺たる物だが十分な用地や専用軌道を有していることからリハビリテーションのポテンシャルが高く、近い将来更新が予定されている。また、ヘリオポリスから新興住宅地であるニューカイロ入り口まで延伸される計画がある。

 

エジプトに車輌を納入している近畿車輛の方が書かれたエッセイ

近畿車輛技報 第14号 2007.10

古代ヘリオポリスThe City of the Sun God (Ancient Heliopolis)

DSC_0098_resize古代ヘリオポリスは、現在のカイロ市街地の北部(カリオベイヤとの県境に近い)、現在のヘリオポリスの西部、Mataria地区に位置していた古代エジプトにとって重要な都市であった。(Google Earth: 30° 7'44.36"N, 31°18'26.81"E)

ヘリオポリスは古代エジプトの太陽崇拝の中心地、ヘリオポリスはギリシャ語だがその他"Per-Re"("City of Re"、考古学庁の人はReを”ラ”と発音していた。) とも呼ばれ、バイブルでは"On"と記されていた。最初はTem神をここで崇めたが、その後、"Re" (Sun God) を崇拝した。ヘリオポリス神殿は古代エジプトの祭事の中で最も重要な新王国(1570-1085 B.C.)のためであり、神殿はAmon Temple (Thebes(ルクソール))に次いで第2のサイズを誇っていた。ヘリオポリスは古代エジプトの宗教的な文学の中心地でもあった。

今日、古代ヘリオポリスのなかでSesostris I (Second King of the 12th Dinasty, 1972-1928 B.C.) オベリスクが唯一この地に残るモニュメントである。その他二つのオベリスクは、ロンドンのテムズ河畔に、そして、もう一つはニューヨークのセントラルパークに立っている。

ニューヨークのオベリスクはクレオパトラの針と呼ばれ、ヘリオポリスに建っていたものを紀元前12年、ローマがアレキサンドリア建設していた神殿の正面に据えるためへ移転させ、1881年に当時のエジプト総督からニューヨーク市へ寄贈された。

現存する27のオベリスクのうち最も古い、高さ20.4m、重さ121トン、赤花崗岩

Ancient Heliopolis by wiki

 

古代ヘリオポリス略史

History of Ancient Heliopolis

2900 B.C.: ヘリオポリスが最初に歴史に登場する。
2400 B.C.:Re神殿の聖職者が古代エジプトの宗教的な中心として"Re"(Sun God)を崇めることに成功し、ヘリオポリスの名声が高まる。
1500 B.C.: 古代エジプトの神々においてその最も重要な神としてRe(Sun God)を崇めはじめたとき、ヘリオポリスは歴史に名を残すにいたった。
1300 B.C.: ラムセス2世の頃、ヘリオポリス神殿は最大に至った。
1000 B.C.: ヘリオポリスの衰退がゆっくり始まる。
332 B.C.: 紀元前332年、アレキサンドリアが築かれてからヘリオポリスはエジプトの支配者に忘れ去られた。
30 B.C.:ローマの侵入によりヘリオポリスのほとんどのオベリスクは取り除かれ、そして、城壁は新たな都市の建設に使用された。

(出所:

CAIリンク

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